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自己のアイデンティティーが確立される過程において生まれ育った土地というものは否応なく、多大な影響を与えるものである。生まれ育った日本という土地から物理的に距離を置き第三者的視点から日本を眺めた時、アイデンティティーを創出した日本の土地や文化についての無知を認識し、そこに興味を抱き、その素晴らしさに気付き始めた。

 

“不均衡(不完全)”の美しさは侘び寂びという日本古来の美意識に通じる。

画一的な光量に照らされ、どれもが時代の流れにのり、どんな状態でも完璧な美しさを求め、光り輝くことが美徳とされる中においても、欠けた茶碗のように不均衡であるがこその美を、ULTERIORは追求し続けるのである。不完全なものの美しさとはつまり、変化の過程にある美しさである。変化を受け入れ、あるがままを受け入れてこそ、その前後には無限の時間が生まれ、そしてその時間の中に、美しさの根源はあるのではないだろうか。茶碗の欠けている様と同じように、西日が沈みそこへ被さるように夜がやってくる過程の空の色には、その前後にある時間が抱えた無限のストーリーが必ずあるはずなのである。

 

ある禅寺を訪れた際、インドから仏教が伝来する過程を表現した枯山水庭園を観た事があった。一休宗純も修行したとされるその禅寺へは世界各地から修行僧が今でも訪れるという。ブッダガヤから訪れた僧侶から送られた石が、この枯山水庭園には用いられていると、寺のご住職からの話を聞いた。さらに、その石は庭にわずかにしか顔を出していないが、実はとても大きなものなのだと聞く。石は見せびらかすものではなく、人目に晒すことが目的ではないからだと。見せずに示すこと、見せないことの美徳こそ大切なのだと、そのとき気付きを得た。そしてそのご住職との話のなかで、禅とは一言でいえば「そういうものだ」という心構えのことだとも知る。

 

そういうものだと、ものごとを一度受け入れること、そしてそこから考えること。

ULTERIORの美意識と理念は、その間に存在する。