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日本文化につながるものづくりのあり方を考えた時、仏教のはじまりであるインドとの繋がりを思った。インドの伝統的な生地であるカディを用いた洋服を考え、数あるカディの柄の中からストライプ柄を見つけた時、日本独自の「いき(粋)」という美意識を思い出す。

 

かつて読んだ『「いき」の構造』(九鬼周造著 / 岩波文庫)の冒頭で語られていたことには、「いき」という美意識は他文化圏に正確にトランスレートすることの難しい、私たちの文化や精神や歴史が深く反映された美意識と言える。例えばそれは、日本で生まれ、日本で生活をしている人々にはフランス語のespritの表すことを正確に理解し得ないことと同義であるのだと。そしてこの「いき」という言葉の構造を解体し検証しているのが本著である。

 

江戸の文化が醸成した「いき」という現象を本著では『垢抜して(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)』と定義している。「いき」は一元的自己とそれに対する相手との間に起こる二元的態度のことであり、そしてそこには相手に対する媚態(色気)を伴うものである。そしてそれだけではなく、そこに「生粋」の江戸の人々の意気地と、思い通りにならないことに対する諦めを覚えることで洗練されて垢抜けていく経験の2つの要素を必要とする。それらの3つが組み合わさり、「いき」となる。

 

そしてこの「いき」という美意識が芸術表現に対して持ち込まれた時、どんなものが「いき」であるか。 『さて、幾何学的図形としては、平行線ほど二元性を善く表しているものはない。永遠に動きつつ永遠に交わらざる平行線は、二元性の最も純粋なる視覚的客観化である。模様として縞が「いき」と看做(みな)されるのは決して偶然ではない』と述べられている通り、縞模様に「いき」を見ることができるのだそうだ。さらに言うならば、『横縞よりも縦縞のほうが「いき」であるといえる。』と本著では言い切られている。このまわりくどくも軽快な「いき」の表現を思い起こしたデザイナーは、インドの生地に日本の美意識的「いき」を感じ、このカディをコレクションに採用した。
ではなぜ、横縞より縦縞のほうが「いき」であると言い切れるのであろうか。